深山祖谷山について過去3回ブログを書きました(詳細はこちらとこちらとこちら)。
その深山祖谷山、聴いてきました! 3月9日のことです。
場所は兵庫県伊丹市。兵庫県との二拠点生活をしている私は、予定を調整し、この日に合わせて兵庫の自宅に戻りました。
「予定を調整し」と軽く書きましたが、実はこの日は妹の家の法事でした。また私が住む集落の春祭りでもありました。更に言うとツアーガイドの依頼も2件入っていました。
兄のくせに法事をブッチし(妹よ、済まぬ)、自治会長(実は私は集落の自治会長でもある)なのに祭りもブッチし(集落の皆様、済みません)、ガイドは仲間にお願いし、伊丹まで駆けつけることにした訳です。
なぜそこまで深山祖谷山を優先するのか? いぶかし気な反応をする方もおられました。
が、地元活性化を標榜する私にとって、このコンサートだけはどうしても生で観ておきたく、申し訳ない気持ちはあったものの、迷いはありませんでした。その扉の向こうに何やら素晴らしい未来が開けている。そんな確信めいたものがありました。
そして本番! 確信は当たりました!
感動でした! これは壮大な絵巻! 一大スペクタクル! こんなに合唱・演奏に没入したことも興奮したこともありません。 終わった後も耳に残るきれいな音色。 良質な、心地のよい余韻が続きました。
祖谷がこんな素晴らしい作品となって歌われている。 こんな感動はありません! と同時に、これをしっかり後世に残していく! それが祖谷に生まれ育った者の使命、と確信しました。
その具体的な方法はこれから考え続けるとして、私がまずやるべきは、この作品のすばらしさを皆さんに伝えることです(特に祖谷の人)。
幸い動画はありますが、やはり生とは違います。 「はい、どうぞ」だけでは理解してもらえず、私の気も済みません。
考えました。そして自分なりに解説を入れてみることにしました。
この曲は大作作なので1回で伝えきるのは無理です。幸い第1章~第3章で構成されているので、3回に分けて書くことにしました。
どれくらい伝わるかわかりませんが、是非、合唱を聴きながら文面を追ってみてください。まずは第1章です。冒頭2段落を読んだあとYouTubeはこちらをクリックして続きを読み進めてみてください。
※スマホの人は同時視聴は不可かも。できればパソコンで。

■第1章(YouTubeはこちら)
深山祖谷山の第1章は太田章三郎信圭氏が書いた”祖谷山日記”と言う紀行文と地元の民謡で構成されています。
太田章三郎氏は徳島藩士板野.勝浦郡代で江戸時代後期(文政8年、1825年)に宗門改めの一環で祖谷を訪れます。宗門改めとは、キリシタンの摘発を目的に、民衆の信仰宗教を調査する制度のことだそうで、冒頭2分間のコーラスでその説明が行われています。
そのため出だしは「耶蘇宗門と言えるは南蛮西戎の教えにして」と言う難しい言葉で始まります。耶蘇宗門とはキリスト教のことで、南蛮西戎とは異国のことを蔑視した表現になります。
そんなキリスト教の教えが「そのかみ(当時)、来泊のともがら(来泊した輩が)、伝え広め侍りける」と続きます(と思います。今一つ古文は苦手)。
その行為が「神をなみし(存在を無視し)、仏をないがしろにし」と続き、「あをひとぐさ(色々な人々?)を惑わす害なりける違法なりとて公より痛く制した」とあります。
しかし「なおその余党(残党)国々に落ち留まりて犯すものある」ようで「キリシタンではない」と言っているのでしょうか?いずれにしても「年毎に起請する公の令法」があるようで「今年このことを掟侍らむとて、徳島を立ち出でて、治めし所を巡る」と旅の目的を説明しています。
その後の12分間は祖谷に入ってからの情景が描かれています。「縦十三里、横七里ほど」とまず地形の紹介があり、「誠にあらぬ世界と覚えて、見も知らぬ小草の花がいみじき(珍しい、見たことがない)」と見知らぬ世界に入っていく気持ちが語られています。
その後、「熊、野猪(イノシシ)、鹿、霊羊(カモシカ)、豺狼(おおかみ)など、さはに住める(たくさん住む)」と続き、猟師とのやりとりが語られます。
まず「道しるべする徳善集落のなにがしで、猟を好めるよし」と紹介しています。「イノシシをいくらばかり得つるや」と問い侍られたところ、「それは覚え侍らず」と答え、「熊なら6つか、7つは獲った」と回答しています。昔の祖谷では狩猟が盛んだったことがよく分かります。
その後、「獅子の出たり」などの呼び声が木霊したと思うと、「菅の笠着て畦ぬる殿によ」と女性の声で田植え歌が聞こえ始めます。山から集落へたどり着いたのでしょうか?
すると今度は男性が「木挽き歌」を歌い始めます。そして男性陣は客席の通路を歩き始めます。歌いながら田植えをする女性の声と、歌いながら木を挽く男性の声が会場一杯に木霊します。
まるで自分が江戸時代にタイムスリップしたような感覚に襲われました。逆に昔の祖谷の人々の霊魂が会場に来て私たちの周りを浮遊している錯覚にも陥りました。
しかも、この間、指揮者は指揮をとりません! 歌い手さんは、タクトではなく、田植えや木挽きなど作業に合わせてリズムを取られているのでしょうか?
音楽に疎い私にはよくわかりませんが、皆さん好きなように歌っているようで、ちゃんとバランスがとれている。 とれてはいますが、完全ではない。 そのバランスとアンバランス感が程よい感じで伝わって来て、あちこちで田植え・山仕事が行われている中を自分が旅しているような幻想が脳裏に浮かんでは消えました。
そして曲はこえかり節に変わり、最後はかずら橋の歌に繋がっていきます。
「祖谷のかずら橋は蜘蛛のゆ(巣)の如くゆらゆら揺れる」。地元の人なら日常的に耳にするこの曲が少しずつ幻想から現実へと私を連れ戻してくれる感じがしました。
それは本当に少しずつで、このじんわり感も絶妙でした。いくつもの集落と山を越え、橋がかかる少し異なる地形の集落に近づく、そんなイメージがよく伝わってきました。
そして第1章最後のパートが始まります。
「今久保名などうち過ぎて、田の窪名より大窪名に渡ってかずら橋を見る」と、かずら橋のある場所に到着します。ここで”クボ”とは”崖”を意味します。ここら辺りが崖だらけだったことが分かります。
”名”と言うのは”集落”のことです。現在とは区割りが違いますが、大窪は現在でいう閑定という集落にあります。そしてそこには今もかずら橋が架かっています。200年前と同じ場所です。
「祖谷の山にかずら橋を架けたるところ9カ所」とあり、「長く大なるはこの橋」と紹介されています。「下は祖谷川と言う谷川の流れにて水底まで33尋(1尋=1.8m)あり、見ればめくるめき(目がくらみ)、見ずしては敷き綱(さな木と呼ばれる足を置く角材を指していると思われる)を定かに踏み難し」と締めくくっています。
※33尋は約60m。今のかずら橋は高さ14mなので、相当高いところに橋があった?また調べておきます。
今とは違い、昔のかずら橋は作りも大変簡素だったと思われます。さすがの郡代様も渡るのが少し怖かったのでしょうか?
と言うところで第1章は終わりです。この後の展開は次回までお待ちください。第2章以降を今すぐ聴きたい方はこちらをどうぞ。
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