昔の祖谷を時代区分すると3つの大きな出来事で分けられると思っています。
まず第一は恵伊羅御子と小野老婆の入山です。”実は東祖谷は開かれた土地だった”でも少し触れましたが、土佐に流されていく途中、土佐と勘違いして祖谷に住み着いたと言う人たちです(諸説あります)。祖谷の人たちに農耕や機織りなどを教え、祖谷の開祖と言われています。
時期についてははっきりしませんが、例えば谷口秋勝氏の”秘境の祖谷山神話と伝説”(祖山秋月堂)によれば朱鳥12年(西暦698年)と美馬郷士史に書かれているとあります。
第二は平家の落人伝説です。恵伊羅御子・小野老婆の入山以来築かれて来た勢力図を大きく塗り替えられたものと思われます。文治元年(西暦1185年)大晦日に東祖谷の大枝と言う集落に辿り着いたところから新たな時代に入ります。
第三は喜多家です。豊臣秀吉の四国攻め以降、政所として祖谷を統治した人たちです。
当時四国は長宗我部一族の支配下にあり、土佐と接している祖谷も当然長宗我部派でした。そこに豊臣方の蜂須賀家が攻め入り、祖谷の人たちが立ち向かったことで天正一揆が始まります。天正13年(1585)のことです。その際、祖谷を平定した喜多家(当時は小野寺家)がそのまま政所として収まります。
上のマップはその後の喜多家と阿佐家の勢力図を示します。阿佐家とは平家の末裔です。アイコンは統治した集落を示し、オレンジ色が阿佐家、黒色が喜多家を示しています。☆は各々喜多家、阿佐家の大将が居たとされる場所です。
”実は東祖谷は開かれた土地だった”でも記載した通り、豊臣秀吉が天下を取ってからは祖谷の入り口は西になりました。その関係か、喜多家は祖谷への出入り口を封鎖しつつ、阿佐家にも目を光らせられる要所を抑えていったように見えます。
新しい土地を支配する人にとって重要なのはその土地の民意。
喜多家大将(源内さん)がいた重末集落には祖谷では一番!と言われる八幡神社があります(冒頭の写真)。たいそう大きな祭りが行われていたらしく、住む人の感謝と誇りの象徴であったに違いありません。
この八幡神社は安徳天皇をお祀りしているもので、そもそもは阿佐家と大変ゆかりの深いものです[*]。
「こんなもの!」と打ち捨てても不思議じゃなかった気もしますが、喜多家は金を寄進し、その維持活動に取り組んでいます。
※安徳天皇は最初は栗枝渡八幡神社にお祀りされていたが後に重末八幡神社に移されている。
よく考えれば、阿佐家に対してはもう少し攻め込んでもよかったのでは?と言う気もしますが、そうはせず、広大な領地を安堵しているようにも見えます。阿佐家に多くの家宝が残っているのも喜多家の穏便な計らいだったのかも知れません。
※白毛馬の勝手な想像です
”喜多家24代目さんと源内さんの話をしました ”でも書きましたが、地元の人から愛されていたように見える源内さん。最大の敵阿佐家に対しても肝要なこのようなやり方が地元民から支持を受けたのかも知れません。
※またまた白毛馬の勝手な想像です
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