私は現在92歳の年老いた母親と二人で暮らしています。その母親、顔を合わすたびに「餅つき機を買いに町に連れていけ」と煩く迫ってきます。正月が近いためです。
母親の世代にとって餅は正月の象徴。これが無くては年が越せないようです。
わざわざ餅つき機を買わなくても、餅自体を買ってくれば済む話だと思うのですが、それでは納得しません。
自分で作った餅を、自分の好きな分だけ、自分のまわりに侍らせて新年を迎えたいようです。
しかしこれは周囲には大変迷惑です。子や孫の分まで大量に餅を作って配ろうとします。自分の子供も、孫も、自分と同じように餅命と思っていると決めつけています。
それと自分自身にとって餅が大変危険な食べ物であることも自覚しておりません。最近では食べ物どころか自分の唾液にすら咽るほど喉が弱っています。私の見てないところで餅を食べると何が起こるか分かりません。
と言うことで、時にはやんわり、時には厳しく、餅つき機を買うことを拒否します。
しかし相手は5分前に言った事すら忘れる強者。丁寧に説明して納得させても、怒って服従させても、少しするとまた同じ話を蒸し返してきます。先ほど大げんかしたことすら忘れています。
そのようなちょっと殺伐とした雰囲気の年の瀬を過ごしている私ですが、少し反省もしています。
「そんなん餅買うて来たらええだけじゃ!」、「そんなにようけ餅食うたら危ないだろ!」
私の発言は現実的なことばかり。情も風情もあったもんではありません。
一方、母親が言っているのは餅は単なる食べ物ではない。自分でついて正月に備えるそのプロセスが大事。そういうことを言っているのかも知れません。
どちらが人間らしいことを言っているでしょうか。。。
聞けば母が子供の頃は、白米とか、餅とか、豆腐とか、こんにゃくとか、そういったものは贅沢品でめでたい時しか食べられなかったとか。
当然ですが、昔なので全て自家製です。暮れに差し掛かる頃から家族総出で餅やら豆腐やらやこんにゃくやらを作ったという事になります。子供が10人もいたので相当な労力で賑やかでもあったことでしょう。
正月になれば親戚との交流もたくさんあります。祖父母におじさんやおばさん、いとこ達にも会えます。暮れに作ったご馳走も食べられます。みんなで集まり、ワイワイガヤガヤ賑やかに、楽しく過ごした思い出がたくさんあるのでしょう。
しかし今の私には、そんな正月を待ちわびる気持ちとか、正月に備えるために時間と手間をかけるとか、そんな気持ちは殆ど無くなってしまっています。
彼是1週間程になるでしょうか? 母と繰り返すバトルを通して、少しずつそんなことが見えてきました。
殺伐としているのは私の心? 長い会社生活で刷り込まれた効率至上主義の弊害か? 折角祖谷に帰って来たのに勿体ないことをしてはいないか?
と言うことで、祖谷に戻って2年半。ひたすら前を見て過ごしてきましたが、少しペースダウンして足元にも目をやるべきか?と思い始めています。
とりあえず餅つき機は買わないと思いますが、この新年はそんなことも考えながら過ごしてみたいと思います。
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