そもそもは、徳島藩士で板野・勝浦郡代をされていた太田章三郎信圭と言う方が祖谷を訪れたことに端を発します。
1825年(文政8年)の話です。「平家屋敷に阿佐左馬之助を訪ねる」とあるので、平家の末裔18代ご当主と会われたことになります。今から丁度200年前の話です。同氏はその訪問を「祖谷山日記」という紀行文として残します。
それから168年後の1993年、その紀行文を参考に祖谷を訪れる方が現れます。
当時秘境サミットと言うものがあり、全国の秘境町村が定期的に集まっておりました。その中で、祖谷をテーマにした合唱曲を作ろうという話になり、柴田南雄先生に白羽の矢が当たりました。
柴田先生はそのお仲間と一緒に2週間に渡って祖谷ならびにその周辺を訪れ、取材されます。当然平家屋敷阿佐家も訪問され、第22代当主阿佐利昭氏から歓待を受けた模様です。

(深山祖谷山シアターピースのページからの抜粋)
そしてシアターピース「深山祖谷山」と言う曲が誕生します。その曲は神戸で開催された秘境サミットの記念コンサートとして最初にお披露目されました。
それから更に31年。今度は「未来へつなぐ合唱の会」という大阪のコーラスグループの皆さんが祖谷を訪問してくださいました。「深山祖谷山」を上演することになったそうで、その現地取材が目的です。そして柴田先生が作られた「深山祖谷山」に出て来る場所を巡られました。その経緯は「深山祖谷山を歌う人たちのお話(前編)」で書いた通りです。
「未来へつなぐ合唱の会」ご一行様が訪問された場所は以下の通りです。
・祖谷のかずら橋:源氏が追って来た時にすぐに切り落とせるよう蔓で作ったという伝説の橋です。
・琵琶の滝:平家落人と主に落ちて来られた安徳天皇ご一行がここを囲んで一休みしたという伝説の滝です。お付きの女官が琵琶を弾き、安徳帝がスヤスヤとお休みになったのが名前の由来です。
・平家屋敷阿佐家:平家落人の棟梁が住み始めた家です。12年前までその末裔が住んでおられました。
・栗枝渡八幡神社:安徳天皇がお祀りされている神社だと言われています。
・落合集落展望所:平家が落ちて来た時に通ったと言われる寒峯と言う山が展望できます。
以上から「深山祖谷山」は平家の落人伝説をテーマにした曲と言うことがわかります。

「未来へつなぐ合唱の会」ご一行様は祖谷で一泊され、翌日は伝習ホールと言う祖谷の施設で練習されました。「祖谷の余韻が残っているうちに」とおっしゃっていました。冒頭の写真がその風景です。
練習は私も見学させて頂きました。 驚きました! これがコーラス?
合唱者が歩くんです。 歩きながら歌います。 身振り手振りも交えます。 「獅子がでるぞ~」みたいなセリフもあります。 聞けば本番では朗読も入るとか。
あぁ~、シアターピースとはこういうことか? やっと腑に落ちました。 普通の合唱ではありません。 朗読、民謡、芸能などを素材として、身振りや歩行も交えながら多様かつ豊かに曲を表現する。 そういうもののようです。
聞けば、平家物語の屋島の戦いの朗読劇や、建礼門院が晩年に京都大原で詠んだとされる歌も挿入されるそうです。 しかし柱は、外来者による祖谷山の描写と、祖谷の住民の語りや民謡。
つまり、外来者である柴田先生が、祖谷の人たちと過ごした2週間で感じたことを、ご自身の作曲と、祖谷の民謡と、平家物語などの朗読を交えながら、壮大な作品として仕上げたものが「深山祖谷山」と言うことになります。
「まだ練習の途についたばかり」という状況で、しかもその一部を聴かせて頂いたに過ぎませんが、大変感動しました。
コーラスでもない。ミュージカルでもない。オペラでもない(観劇したことはありませんが)。私が初めて経験する感覚の音楽。 驚きと、新鮮さと、感動が同時にこみあげて来る不思議な感覚に襲われました。
その演奏が3月9日(日)に伊丹市のアイフォニックホールで開催されます。ご興味のある方は是非足をお運びください。もちろん私は行きます!
※無料チケット10枚持っています。必要な方は問合せ欄から私までコンタクトください。当日入場前にお渡しいたします。先着順。

(伊丹アイフォニックホール)
「未来へつなぐ合唱の会」の皆様は、練習会の後、都築商店で昼食を摂られましたが、そこでは地元の人たちの民謡を聴いて盛り上がったようです。
宿泊された旅の宿 奥祖谷は消滅しそうな祖谷の名産を後世に残そうと夫婦・兄弟で懸命に活動している人たちの宿です。きっと祖谷の名物とその解説を嫌と言うほど聞かされたことでしょう。
その前の平家屋敷阿佐家でも23代目ご当主がこのために予定を空けて待ってくださっており、代々伝わる伝説や家宝の話などを、直々に、切々と、いつもより熱っぽく、お話してくれました。
更に帰りのバスの停留所。通りがかったご近所のおじいちゃんに話しかけられ、バスに乗ってからも手を振って見送ってくれたそうです。
後日届いた幹事さんからのメールには「今日はまだ心が祖谷にあって、仕事には全く手がつきませんでした笑」とありました。
31年前に柴田先生がお感じになった祖谷。そしてそれを「深山祖谷山」に表現された祖谷。約半日のガイドでしたが、少しは疑似体験できたかな?と思っております。
太田章三郎信圭氏、柴田南雄先生、「未来へつなぐ合唱の会」と繋がれて来たバトン。
このご縁がいつまでも続くよう、地元民としてもしっかりと受け止めて行きたいと考えております。
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