天皇森、京上、そして宇治川

祖谷の観光サイト/天皇森 観光サイト

祖谷に落ちて来られた安徳天皇。最初の宮殿が現在「天皇森」と呼ばれている場所に建てられたことはブログ「祖谷における平家の落人伝説をまとめておきます」で書いた通りです。

その地は祖谷で一、二を争う景色のよいところだったそうで、落人の大将 平国盛公 が「ここしかない!」との思いで選んだと言われています。

すなわち、森があり、その南側には祖谷では珍しく日当たりのよい平地が広がり、きれいな淵があり、そのそばに大きな岩、更にその上に美しい老松がそそり立つ、そんな地形のところだったようです。

そこが地すべりで流されたことも上記ブログ記載の通りで、その名残として残っている淵のそばの岩の辺りが天皇森と呼ばれています。

天皇森は京上という集落の中に存在しますが、この「京上」にもいわれがあります。

帝がお住まいだったこの集落。「京」と呼びたいが、それにはあまりにも侘しい所。仕方なく、『京の都よりも遥かに高いところに位置する「京」ですよ』という意味合いで「京上」と名付け、天皇をお慰めしたと言われています。

更に、天皇森の淵を少し下がった辺りは「宇治川」と呼ばれ、「あれは比叡の山」、「こちらは宇治の流れ」と景色を指して、京への思慕を募らせる帝をお慰め差し上げていたと言われています。

しかし、この話、違和感を覚えませんか?

帝が京に居られた時、宇治川と比叡山を同時に見ることができる場所とはどのような所だったのだろう? 京都にも住んだことがある私は少し疑問に思いました。

そして調べた結果、よりこの伝説の奥深さを知ることになりました。

今、NHKで紫式部を題材とした大河ドラマが行われています。そして彼女が書いた源氏物語。当時、宮中で大変評価が高かったのはドラマに描かれている通りだと思っています。丁度西暦1000年頃の出来事でしょうか。

ただ、この源氏物語。原本は残っていないようです。我々が目にすることができる源氏物語は、西暦1162年生まれで、小倉百人一首の編集者の一人でもある藤原定家の写書がベースになっているようです。

安徳天皇が祖谷に入られたので1185年。藤原定家が33歳の頃です。京において源氏物語が憧れの対象として大いに取り上げられていたことは十分に考えられます。

そして、その舞台は宇治川。 宇治川が、宗教の聖地比叡山と並べて語られたとしても全く不思議ではない、ということがわかりました。

祖谷の観光サイト/天皇森

皆様、祖谷に観光に来られ、天皇森の辺りを通過される際は、右側(奥祖谷に向かって進む場合)に「天皇森」と書いた停留所があります。是非注視して頂き、この物語への思いを馳せて頂ければと思います。

ちなみにですが、この停留所、今は乗り降りする人は殆どいないと思います。にも拘わらず、停留所を残してくれている四国交通社。大変粋なことと感謝しています。

現在「天皇森」を示すものは、この停留所しかありません。

※本記事に記載の落人伝説部分は、”祖谷の語りべ(森本徳著、祖谷観光開発有限会社発行)”から引用しています。
※源氏物語のくだりは全くの私の想像です。

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