祖谷の民謡「祖谷の粉ひき節」には日常生活を綴った様々な歌詞が盛り込まれています。それは前にも書いた通りです。
そんな歌詞の一つにこんなものがあります。
「祖谷のぉ~源内さぁ~んは~ 稗の~粉にぃ~むぅ~せぇ~た~
お茶がなかったら~ むぅ~せぇ~死ぃ~ぬ~るぅ~
なかった~らぁ~ なかった~らぁ~ お~茶~がぁ~
お茶がなかった~らぁ~ むぅ~せ~し~ぬ~るぅ~」
源内さんとは喜多源内という江戸時代に祖谷全体を統治したお代官のことです。そのお代官さんが庶民に混じって粉を挽いたのでしょうか?その粉を吸って咽ている様子が唄われています。
「お代官様でも稗の粉に咽るんじゃのぉ~」。 源内さんを囲んで笑う人、慌ててお茶を汲みに行く人、その道を開ける人。 源内さんを中心に、みんな笑顔で和やかに集っている、そんな情景が目に浮かびます。

祖谷には平家落人伝説が残っています。約840年程前の話です。平清盛とか源頼朝とかの時代のことです。
それ以来、祖谷の中は平家一色。群を抜く屋敷の立派さや石高の高さからその様子が伺えます。
※江戸時代、祖谷には36の名(統治管轄を区割りしたようなもの)がありました。平家屋敷阿佐家はその1名に過ぎませんでしたが、石高は134石で、最高でも80石台の2位以下を大きく引き離していました*1。
*1 三好文化財講座 特別編 追加資料(下川清著)より
平家の落人から400年ほど後、豊臣秀吉が天下を取りました。そして江戸時代に入ってお代官が祖谷にも置かれます。それが喜多家です。
もう少し詳しく言うと、祖谷でも税の取り立てや刀狩が行われ、反発した農民が大きな一揆を起こしました。それを鎮圧したのが喜多家です。
そんな喜多家。その末裔は現在24代目に当たり、東京で生活されているそうです。そしてその方が先日ルーツを辿るべく祖谷に来られました。
聞けば23代目に当たるお父さんが5歳の時に祖谷を離れたそうです。なのでお父さんは祖谷の事は殆どご存知ではありません。24代目さんも祖谷には子供の頃に訪れたことがある程度だそうです。
しかし、ご自身も結構な年齢になり、お爺さんから聞かされていた自分達のルーツが気になりだしたようです。なんと言っても「喜多家」ですから、当然のことと思います。
しかし既にお爺さんは他界されて話を聞くことはできません。後は実際に祖谷を訪問し、ゆかりある場所を巡るしかありません。
そんな背景があって祖谷に来られたそうです。
もちろん、祖谷がもともと平家の里であったこと、そこに代官として喜多家がおさまったこと、税の取り立てや刀狩のことなどはよくご存じで、だからこそ、自分の祖先は祖谷で乱暴なことはしていなかっただろうか?、自分たちは嫌われた存在ではなかっただろうか?、そういうことが気になっていたそうです。
それを聞いた私がまず紹介したのが冒頭の祖谷の粉ひき節の歌詞です。
この歌詞を見れば、嫌われていたどころか、大変庶民に親しまれていたことがよく分かります。
しかも、その歌詞が今も歌い継がれています。源内さんのことを後進に伝承していった証です。きっと誇らしげに語り継がれて来たことでしょう。
24代目さんは「涙が出そう」と言いながら、喜ばれ、大変安堵された様子でもありました。
「また必ず来ます!」ともおっしゃっていたので、その際は私もご一緒してルーツ巡りをさせて頂きたいと思っております。
ちなみに、現在の私のWebサイトにおいて喜多家絡みで紹介しているのは、武家屋敷と長岡家住宅です。長岡家住宅は元は喜多家だったものを長岡家が譲り受けたものです。
他にもたくさんありますが、私自身も勉強しながらおいおい情報を増やしていく予定です。
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