落合集落はどのように眺めたらよいか?(その2)

祖谷の観光サイト/落合集落 観光サイト

祖谷の幹線道路(祖谷街道)をガイドしていてよく出てくる質問は、「なぜあんな山の上に住もうと思ったのでしょうねぇ?」とか、「なんでわざわざあんな不便なところに家をつくったのでしょうねぇ?」というものです。時々見え隠れする山の上の集落を見ての発言です。

が、それは逆。祖谷の住民が山に住み始めたのは1000年前とかそれ位のオーダー。祖谷街道ができたのは約100年前の1920年(大正9年)です。好き好んで主幹線から遠く離れた山の上に家を建てたのではありません。山の上に集落ができたずっと後に下の方に幹線道路が作られたのです。

では、なぜそもそも人は山の上に住み始めてたか?それは「落合集落はどのように眺めたらよいか?(その1)」をご参照ください。

で、祖谷の人も皆さん同様、幹線道路ができた後はその周辺に住む方がいいなぁと思い始めます。いきなり引っ越すと言うのは難しかったと思いますが、独り立ちして家庭を持った子供達の多くは町に引っ越すか祖谷街道沿いに家を建てるかどちらかを選択します。

こうして祖谷街道沿いが集落の中心地になって行きます。落合集落で言うと、一番下の部分に民家が密集した場所があります。ここが中心地です。ここに、お店とか、病院とか、郵便局とか、ができます。郵便ポストですらこの密集地にしかありません。それまでは山に籠って自給自足の生活をしていた人たちも山を上り下りする必要が生じました。

祖谷の観光サイト/落合集落密集地

落合集落(冒頭の写真)を眺めると日光のイロハ坂のように蛇行しながら上に上がっていく車道が見えますが、祖谷街道ができた直後にこの道はありませんでした(当然ですが)。私が子供の頃もまだありませんでした。その代わり、縦横に里道が走っていました。落合集落展望所の右側に地図が掲載されており、赤い線で書かれているものが里道です。

落合集落にも私の同級生が何人かいましたが、彼らは学校に通うのに毎日この坂(里道)を上り下りしていました。それだけでなく、帰りには、米、食材、日用品なども運んで上がるようによく言われたそうです。「米頼んどるきん、帰りにもろて上がって来いな(米を注文したので帰りに受け取って上がっておいで)」てな調子でしょうか?

プロパンガスを背負って上がったこともあるそうです。大人の話ではありません。中学生の話です。高低差は最大で390mです。

祖谷街道ができ、都会から物資が運ばれ始めた頃、祖谷の生活は変わり始めました。

眼下に見える家の密集地帯はそんな生活の変化の象徴です。イロハ坂のような車道ができるまでの過渡期において、地元の人たちが変わりゆく生活にどのように対応してきたか?

祖谷に観光で訪れ、落合集落を展望される際は、そのような実際の暮らしぶりをイメージしながらご覧頂けると楽しいかも知れません。

コメント

タイトルとURLをコピーしました