祖谷における安徳天皇伝説をまとめておきます

栗枝渡八幡神社 祖谷の歴史

以前、”祖谷における平家の落人伝説”をまとめてみたところ、読者数が多かったので、安徳天皇伝説についてもまとめてみたいと思います。

一般に日本では、安徳帝は壇ノ浦で入水されたことになっています。

しかし祖谷いやでは屋島(下記マップ①)の合戦の後、平国盛とともに祖谷に落ち延びて来たと言われています。壇ノ浦に行ったのは敵をあざむくための替え玉と言う訳です。

祖谷へのルートについては諸説あります。何手かに分かれたとも言われています。

一番よく聞くルートとしては寒峰かんぼうという山を越えて大枝おおえだと言う集落に辿り着いたと言うものがあります。国盛一行はこのルートを辿った可能性があります。

山の写真

一方、安徳帝ご一行は小祖谷おいや(下記マップ②)という所を通って、西祖谷から東祖谷に入って来られた可能性が考えられます。これも落人ルートの一つです。そして琵琶の滝(下記マップ③)で小休止をとったと言われています(その詳細はこちら)。

こうして東祖谷に辿り着いた安徳帝は京上という集落に宮殿を用意されます。その地は今も”天皇森”(下記マップ④)と呼ばれています(詳細は”天皇森、京上、そして宇治川”参照)。

しかしその後その宮殿は地すべりで流されてます。「朕の行く所は蛙の声のする所である」と言う安徳帝の一言で次の場所探しが始まったそうです。

季節は秋。普通なら蛙の声はしないはずですが、下瀬(下記マップ⑤)という集落辺りで蛙の声が聞こえたそうです。当時その辺りには温泉が湧いていて、暖かかったのが理由とも言われています。

栗枝渡の春

(栗枝渡集落の風景)

その地で蛙の声を聞いた家臣たちは宮殿に適した場所がないか探します。そして現在の栗枝渡くるすど八幡神社(下記マップ⑥)の辺りに辿り着きます。南向きで祖谷では珍しく大変日当たりのよい所です。

ここがよいという事で栗枝渡の地に宮殿が建立されたようです。しかし悲劇の天皇。祖谷の伝説でもこの地で若くしてその生涯を閉じることになったようです(7歳、15歳、17歳など諸説あります)。
※1185年~1200年頃の出来事と思われます。今から800年以上前の話です。

亡くなった安徳帝はその場所で火葬され、栗枝渡八幡神社にお祀りされたと言われています。

しかしその後の1742年(寛保2年)、八幡神社が火事に遭い、遺骨以外の遺物は全て焼失したと伝わっています。約280年前のことです。

当時祖谷を統治していた喜多源内氏(喜多氏については”喜多家は阿佐家に寛容だった?”参照)。これを誠に恐れ多いことと悔やみ、再発防止を図ります。

すなわち、自らが住む重末しげすえという集落に社殿を建て、御霊みたまを遷社申し上げた上で大切に管理していきます。村社として八幡神社(下記マップ⑦)と公称されたこの寺は今も地元の人たちから愛され大切に維持されています。

以上が安徳天皇に関する祖谷の伝説です。

重末八幡神社

(重末八幡神社)

赤旗など実際にモノが存在する平家落人伝説と比べ、安徳帝伝説は口頭伝承ばかり。明確な物証がありません。それを指して信憑性を疑問視する声も耳にしますがそれはどうでもよいこと。

何にロマンを感じるか”でも書かせて頂きましたが、800年にも渡る長い年月、先祖の言い伝えを愚直に守り続けて来たその歴史にこそ価値と重みがあると思っています。

加えて、安徳帝伝説はどれも幼子おさなごの悲しいものばかり。子を持つ親なら感情移入せずにはおれません。

安徳帝伝説が残る場所とはそういうところ。 是非訪れ、静かにたたずんでみてください。 

歴史の重みとロマンを感じ、それに浸り、幼子の悲劇に感情移入できたなら、祖谷への旅が格別なものとしてあなたの記憶に残ることでしょう。

参考文献:森本徳著、”祖谷の語りべ(安徳帝・平家落人伝説編)”、祖谷観光開発有限会社発行

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