深山祖谷山を聴いてきました!(第2章)

深山祖谷山を聴いてきました(第2章) 出来事

深山祖谷山を聴いてきました!(第1章)”に引き続き、第2章のお話を書きます。第2章の動画はこちらです。第1章同様、できれば動画を聴きながらお読みください。

さて第2章は私が”深山祖谷山を歌う人たちのお話(前編)”で興奮した”戸越とごえ”の話から始まります。いよいよ東祖谷に入ってきます。

■パート1

曲は”閑定名かんじょうみょうと言える所より戸越坂と言うを上る”というセリフから始まります。

”この坂はことのほか遠くて越えわびたり(越えかねた)。かろうじて峠に至る”

とあるので相当きつい坂だったようです。健脚のはずの江戸時代の人々。それでも東祖谷への道は険しかったのでしょうか。そして、

”これより東祖谷と言えり” 

と続き、東祖谷に向っていくに連れて音程が上がって行きます。高い山々が想起され、高揚感も高まっていく感じがします。その後は

”おほくおほみ草をうへたり。山藍もところどころに見ゆ。高き峯にも、やいはた侍り”

と音の雰囲気が変わります。やはり高音のメロディがエコーのように続き、高い峯を仰ぎながら稜線を歩いている感じがしました。しかし先ほど程のような高揚感はなく、すがすがしいイメージが伝わってきます。そして

”岩津滝のさかしき(険しき)があり、”鷲、クマタカなどが巣くうところとなん”

と続きます。”栗寄の大カーブ(紅葉編)”でも記載しましたが、龍宮崖公園まで続くこの辺りは岩盤が大変固く、崖が多いところです。古道はその崖の更に上の稜線を通っているのでこのような情景が描写されているのだと思います。

■パート2

ここで再び雰囲気が変わり、太鼓も入り始めます。阿佐名あさみょうという平家落人伝説の総本山に入ることを太鼓で示唆しているのでしょうか? そして2つ目のパート、平家の末裔まつえいが住む阿佐家の話に入ります。

平家屋敷阿佐家住宅

2つ目のパートは
阿佐名といへる所の、阿佐左馬之助のもとに宿れり。”
で始まります。

左馬之助氏は平家の末裔阿佐家第18代当主です。 次に

”家あるじは、従二位じゅにい中納言平教盛のりもり卿の二男、従四位越後守国盛朝臣あそん、屋島の浦の戦を避けて、この山に落ち留まりていまそかりしが(いらっしゃったが)”

と落人伝説が語られます。国盛とは祖谷に入って来た平家の大将です。教盛とは清盛の弟で源氏と最後まで戦い、壇ノ浦で入水したとされる人です。 その後、

”承元2年卯月うづき10日に亡くなりたまい、法名を定福寺じょうふくじ殿順照道義しゅんしょうどうぎと言う”

ことが歌われています。
※定福寺とは落人の大将国盛が祖先や一族、戦で犠牲となった将士の霊を供養するために建てたお寺です。今はどこにあるか分からなくなっています。定福寺についてはその落慶らっけい法要の際に国盛が詠んだとされるうたが今も残っています。その詳細はこちら

そして、

”墓は石を積みてしきびをうたへり” 

と伏せ墓、すなわち墓だとはわからないように伏せて作られた平家の墓が紹介されます(これは現在も残っています)。  

平家の赤旗

更に、家宝の軍旗を見せてもらったのでしょうか?

”この家にいくさの旗二流ふたながれあり。大旗おおはたは白ききぬ、赤ききぬ段々にて、上に八幡大菩薩とかけり。向かい蝶の紋あり。年経りなえばみたるが(長い年月が経過したようで)赤きはうつろいて黒みたり”

と表現しています。

現在はレプリカしか公開されていないこの軍旗。私も一度本物を見せてもらったことがあります。元々は茜と紫紺しこんで染められていた平家の赤旗。すっかり色が落ちて薄い茶褐色と黒に変わっていました。鳩文字で書かれた八幡大菩薩と言う文字と、家紋である向かいアゲハの図柄はしっかり残っていて、当時は血のりの跡と聞かされた虫食いなどが大変印象的でした。

祖谷衆太鼓

■パート3(祖谷衆太鼓)

そしてここから祖谷衆太鼓が響きます。これは説明は不要。ぜひゆっくり演奏をお聞きください。凄いです!

今は叩き手もおらず、楽譜もなく、約30年前の動画から譜面を起こして再現してくださいました。感謝しかありません。平家落人も大変喜び、その御霊みたまが駆けつけて会場内を浮遊している感じがしました。

■パート4(朗読)

祖谷衆太鼓の後は、平家物語の朗読に入ります。天草版平家物語 巻第四第十六 屋島の合戦のくだりです。

ここも私があれこれ書くと雑音にしかなりません。素晴らしい朗読に耳を傾けて頂ければよいだけですが、最小限の説明だけ入れておきます。曲の順に並べておきますので、目で追いながら朗読に耳を澄ませて頂ければと思います。

冒頭は季節の移り変わりを表現しています。その後、有名な義経の四国上陸が語られます。

ここで渡辺とはそのような津が淀川河口にあったようです。また南海道とは四国を指し、楫取かんどりとは”かじとり”、すなわち船頭を指すようです。

要するに、淀川沖から四国に渡ろうとする義経に、こんな嵐では船は出せないと船頭が言います。すると、義経はならば”射殺せ。矢に当たって死ぬるも同じこと”と言い、結局5艘だけ船が出ます。

そして”船どもかがりたいて敵に船数見するな、義経が船を本船にして篝を守れ”と義経が先頭切り、わずか三時みときで徳島は勝浦に無事到着しました。

その後、義経が「屋島の城の様体ようだいはなんとあるぞ?」と聞きます。右から親家役が「浅間にて馬の腹もつかえることなく渡れる」と答えます。
※屋島は今は埋め立てられて四国と陸続きになっています。それほど近い所にあります。

それを聞いて、5艘の船で渡った義経部隊(それでも150人程はいたようです)が屋島の平家を攻めかかります。平家は意表を突かれたのか、すごい大群が押し寄せてきたと勘違いして総崩れになった様です。

その後、源氏方が「大臣おおい殿これをごろうぜられて、能登殿はおじゃらぬか?」と問いかけ、平家方の”能登殿二百人ばかりで同じ渚に上がられ”ます。

この能登殿とは大変勇猛な武士で、それ故に源氏の誘いに乗って渚まで引き返して来たものと思われます。そこから源氏と平家のやり取りが始まります。

次郎兵衛ひょうえ(平家方):けふ(今日)の源氏の大将はたそ?(誰ぞ?)
伊勢の三郎(源氏方):こともかたじけなや、清和天皇のお末判官ほうがん殿ぞ
※判官とは義経の事。義経の正式な名は九郎判官義経。

そこから激しいけなし合いが始まるのですが、この部分に代表される団員の語りも大変見所みどころです。 声がよく通るのは当然だとしても、これだけのセリフを噛みもせず、詰まりもせず、滔々とうとうと語る! 凄いです! さすが合唱団員! 

そして最後は語り手が”雑言ぞうごんは互いに益なし”とて、弓の名手与一が次郎兵衛の胸板を打ち抜きます。

よっぴーて、射る

ここも見せ場です。 ”弟の与一、よっぴいてー、射る!”  唯一ここだけアクションが入ります。 大変張りのある声。 立ち姿も美しく、アクションも印象的です。 映像をじっくりご覧ください。

が、その直後、”その後は言葉戦いはせなんだ”と、唐突に終わりを迎え、そそくさと舞台を降りて行きます。

■私の妄想

えっ? えっ? えっ? ここで終わり?

客席の全員が退出される語り手さんを乞うような目で追いかけたことでしょう。 しかしその足取りは力強く、何かを振り払うかのようでもありました。 その背中も何かを訴えています。 そして第2章自体もここで終わります。

狐につままれたようです。 何この唐突感? 何このモヤモヤ? 何この含みを持たせた終わり方?

実はこのお話に出て来る能登殿とは平清盛の甥の平教経のりつねです。大変有名をとどろかせた武士で、最後は壇ノ浦で命を落とします。

しかしそれは平家物語のお話。祖谷では、壇ノ浦に向かったのは替え玉と言われています。本物は屋島の合戦の後、安徳天皇をお連れして、祖谷まで逃げて来ています。それが前述の”従四位越後守国盛朝臣”です。祖谷では国盛と名乗っていました。

と言うことで、祖谷の話が真実だとすると、次郎兵衛が射殺いころされた後、能登殿は安徳帝をお連れして、こっそりと祖谷に向かったことになります。もしくは次郎兵衛が伊勢の三郎とやり合っている間、既に秘密裏に行動を起こしていたのかも知れません。

いずれにしても、渚まで戻って来たはずの能登殿。それ以降は意図的に話がカットされているようでした。

そうか、柴田先生(この曲を作られた人)! このような終わり方をすることで、能登殿が四国山中に落ち延びた可能性を示唆したかったのですね! 

そんなことを勝手に思い始めます。

そう考えると退出する語り手さんの後ろ姿にも合点がいき始めます。 

背中で語っていたのは「この終わり方の意図に気づいてね」だったのですね?とか、
あの時振り払ったのは”我々の答えを乞う気持ち”だったんですね?とか、
力強い足取りは「ここ大事ですよ!」という無言のメッセージだったのですね?とか、
実に勝手です。

元々妄想癖のある私。こうなると脳の暴走が止まりません。

”射る!”という凛とした強いセリフ。
この瞬間に能登殿が戦の継続を断念した!
それをシンボリックに表現したのがこのシーンではないのか!
だとすると、この直後、唐突に話が終わるのもうなづけける!
ここにだけアクションを入れたことも頷ける!
気づきの手がかりを与えて下さったんですね!
・・・・

際限がありません。。。

が、このように考えると、第2章全体が大変よく理解できた感じがして、一人でほくそ笑んでいる今日この頃の私でした。

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