祖谷の観光/観光サイト(入門編)等で記載のマップを見てみてください。観光サイトが祖谷川沿いに並んでいることが分かります。
祖谷に入るルートは2つあります。①②から入るルートと⑭⑮から入るルートです。というか①②は既に祖谷川に沿っており、その入口は祖谷川と吉野川との合流点”祖谷口”になります。
この祖谷口から祖谷川沿いを遡上するルートは約100年前の1920年(大正9年)に完成しています。久保という集落が終点でした。着工が1902年(明治35年)なので実に18年に渡る大工事です。
ちなみに⑭⑮から入るルート、すなわち県道45号線が開通したのは1974年(昭和49年)です。まだ50年程の歴史です。
さて、祖谷口から祖谷川を遡上するルートですが、この道は祖谷街道と呼ばれ住民から大変親しまれています。
たぶん、祖谷の資源、具体的には木材や葉タバコの運搬、豊富な水を活用した水力発電所の施工などが目的だったのではないかと思いますが(想像です。また調べておきます)、村の人たちの生活を一変させます。

祖谷街道ができるまで、祖谷は隔離された秘境の地でした。観光がまだ盛んでなかったその頃、外の人が祖谷を訪れる理由がありません。
祖谷の人も同様です。自給自足の生活が基本でした。外に出向く用事がありません。
という事は、若い人が教えを乞えるのは身近な年配者だけ。何代も何代にも渡って歴史・しきたり・スキル・ノウハウなどが継承されたことでしょう。それが祖谷独特の文化や風土・風習、景観を醸成しました。

そんな生活が祖谷街道ができることで一変します。最初は木炭車だと思いますが、人や物資の移動が活性化します。それに伴い、外からの情報も入り始めます。
そうなると現金が必要になってきます。 白い米、珍しい海産物、おいしいお酒。買いたくなります。 蓄音機、ラジオ、テレビ、電話。。。文明の利器も入ってきます。買いたくなります。
幸い、土木業、林業、建設業など現金収入を得る手段も増えます。 皆さん、畑を捨てて、これら仕事に従事し始めます。 自給自足から貨幣経済へのシフトです。
しかしそんな暮らし方ならわざわざ祖谷にいる必要はありません。不便な祖谷を出る人達が出始めます。過疎化の始まりです。
こうして祖谷街道ができたことが祖谷に大きな影響を与えます。

しかし祖谷は祖谷であり続けます。残った人たちがここの暮らしを愛していたからでしょうか。先祖から伝承された暮らし方が大切に維持されます。
コエグロを用いた傾斜地農法。 平らな土地がなく、施した肥料は雨とともに流れます。 草を肥料とする昔ながらのこのやり方ならそんな問題は起こりません。 そして傾斜地にコエグロが点在する祖谷独特の光景が維持されます。
そこで作られるソバ、雑穀、穀物。。。 子供の頃から慣れ親しんだ祖谷の味。 都会からどんな食材が来ても、この味だけは譲れません。 祖谷独特の食文化が継承されます。
そんな厳しい山奥での生活。 助け合いの精神が育まれます。 人と人との距離も縮まります。 ご近所さんはまるで親戚・家族のよう。 観光客も同様です。 まるで懐かしい縁者のように迎えられます。
祖谷街道が出来て100年。 激動に弄ばれながらも、先人たちが残してくれた祖谷。 本当に大切なものは何なのか。 将来への道筋を教えてくれているようです。
これからの100年。 これをどう引き継ぎ、どういう風に継承していくか? それは私たちの世代にかかっていると思っています。
コメント