深山祖谷山を聴いてきました!(第3章)

深山祖谷山を歌う人たち 出来事

”深山祖谷山を聴いてきました!(第2章)”に続き、第3章をレポートします。いよいよ最終章です。動画はこちらです。今回もできれば動画と共にお読みください。

■第1パート

第3章の第1パートは、”祖谷いや川と言えるは菅生すぎおいの奥、名頃なごろと言えるかたより流れ出る” で始まります。

実は東祖谷は開かれた土地だった”でも書きましたが、この菅生、名頃という集落は現在の祖谷では一番の奥地、すなわち祖谷川の最上流に当たります。水源は剣山にあるので、

”源は剣の御山と言えり”、と続きます。

剣山は愛媛(伊予)の石鎚山に次ぐ高さ西日本第2位の山で、その頂上付近には剣神社と石灰岩の巨塔があります。御塔石おとうせきと言います。このお山のご神体だったそうです。このことを指して、

”剣権現があること”、”伊予の高嶺たかねに劣らぬ高き山”であること、”これをご神体と崇めまつっていること”、などが述べられています。

その後の”中の瀬の橋”はどこかわかりませんが、”喜多家、阿佐あさ家、久保家、菅生家、集福寺”と、祖谷の名家を渡り歩きながら祖谷川を上流に向かっていったことがわかります。

そして最後は、”暫し語らい馴れにし旅の名残いとわりなし(大変名残惜しい)” と締めています。

深山祖谷山を聴いてきました!(第1章)”で書いたように、そもそも太田氏は”宗門しゅうもん改め”と言うお役目で祖谷に来たはず。 それが「お役人の癖に」と言うのも変ですが、旅を名残惜しく感じ、”祖谷山日記”という紀行文までしたためめる結果になります。

今も昔も祖谷は人情深いところ。そういう風土がこのような化学変化を起こさせたのかもしれません。

■第2パート

第2パートは、「露霜つゆしもも分けて深山の奥なれや、錦を洗う谷のモミジ葉」という太田氏の短歌だけで構成されています。その文字数31。わずか31文字が4分間に渡って繰り返し歌われます。

えっ? どういうこと? 少し理解が追いつきません。

突然の短歌。 長い繰り返し。 しかも叙事的。 ”旅の名残いとわりなし” と叙情的に締めくくった前段からの繋がりがよく分かりません。 ここだけ浮いています。

あっ、そうか! 合唱を聞きながら、パンフレットに書かれた歌詞も追いながら考え続けた私はひらめきます!

「こんな山奥に多様で(精神的に)豊かな人々の暮らしがあった!」 そういう言うことを比喩的に表現しているのではないか?

そう考えると前段とのつながりも理解できます。31文字に4分間を用いる理由もわかります。

約30年前。太田氏の旅のルートを2週間に渡って辿られた柴田先生。 やはり祖谷の人情を肌で感じ、その気持ちを曲の中心に持って来られたかったのかも知れません。

そう解釈した私は、近所や親戚など、子供の頃からたくさんの人情に接したことを思い出し、勝手に太田氏や柴田先生と共鳴したつもりになるのでした。

■第3パート

第3パートは、「思いきや深山の奥に住まいして、雲井の月をよそに見むとは」、という平家物語に出てくる短歌から始まります。

壇ノ浦で生き残った建礼門院(安徳天皇の実母)が京都は大原の山奥で詠ったもので、「栄華を誇っていた頃に見ていた月を、このような山奥の寂しい所で見ることになるとは」という心情を詠ったものと言われているようです。

祖谷を巡る2週間の旅において柴田先生は ”祖谷の人情” と併せて ”落人のはかなさ”、”祖谷の暮らしの侘しさ” もお感じになったのかも知れません。

それを象徴する句を第3章のまん中に置き、連続する2つの短歌で人情と儚さを表現されたのかも知れません。

そしてそこから、粉ひき節、エイコノ節、手まり歌、の重唱に繋がります。

手毬

手まりに合わせてテンポよく歌う童謡、臼がひくリズムに合わせて歌う粉ひき節、そしてゆっくりとした歩きにあわせて歌われるエイコノ節。

素人の私は、リズムも音階も違う別の歌がちゃんと調和することにびっくり! なぜ?なぜ?と思いながら聴き耳を立てます。

そのうちに曲に没頭し始め、幼い頃の情景が脳裏に浮かび始めます。

昔の祖谷は賑やかでした。集落にはいつも元気な子供の声が溢れていました。家の中ではかっぽう着に手拭い姿の女性達が忙しく家事をこなしていましたし、戸外では山仕事や土木作業に精を出す男性陣の姿もよく見かけました。

局に没頭するうちにそんなレトロな昭和の光景が蘇ってきます。しかし今は限界集落。ノスタルジ-ともの悲しさが前記2つの短歌と相まって私の周りをぐるぐる回ります。

エイコノ節が強くなったり、手毬唄が強くなったり、粉ひき節が強くなったり。まるで輪廻のようにいろんなメロディーが周りを回ります。これら3曲以外の曲も流れているのでしょうか。

これは夢かうつつか幻か? 私は昭和にいるのか、江戸にいるのか、令和にいるのか? 色々な感覚が錯綜し始めます。 何やら心地の良い幻想。 心地の良い時間が結構長く続きます。

そしてそんな陶酔から目を覚まさせるように曲が減っていきます。 1つ減り、2つ減り、最後は祖谷の粉ひき節だけが残り、絶妙な感じでフェードアウトしていきます。

しかし私がまだまどろみの中。 それを見透かしたように絶妙のが置かれ、西岡先生のタクトとともに一気に現実の世界に引き戻されます。

■深山祖谷山を聴いてきました!を書き終えて

あれは昨年8月8日。ツアーガイドの依頼がメーリングリストに流れました。その際、殆どの人が存在を知らないであろう”栗枝渡くるすど八幡神社”が希望訪問先に入っていることにびっくり。私は事務局にすぐにレスを入れました。

”お疲れ様です。私は大丈夫です。と言うか、栗枝渡八幡神社を希望されているのですね。ぜひご案内したいです。”

歯車が大きく回り始めた日です。その日を境に色々なことがありました。

未来へつなぐ合唱の会の皆様との出会い、柴田先生やシアターピースとの出会い、合唱の会のメンバーさん経由で入手に苦労していた”祖谷山日記”にも出合いました。祖谷にたくさん民謡があったことも知り、その音源も少しずつ集まるようになりました。

そして何よりも、深山祖谷山を生で聴くことができ、この曲の素晴らしさを知り、本格的な合唱の迫力にも圧倒されました。

実は今回のコンサートの話、祖谷の中でも色々な人に伝えました。 が、そもそも”深山祖谷山”の存在自体を知る人がおらず、説明してもその反応は薄いものでした。 ”祖谷”が歌われていることにもそれほど高い関心はないようでした。

そんな中、一人だけ、私に負けないほどの熱量で反応した人が一人います。古式そば打ち体験体験塾の麗子さんです。

実は、コンサートを聴きに行くに当たり、何か楽屋に差し入れをしたいと思っていました。鑑賞経験の乏しい私は”花束”をイメージしていました。で、本番間近になって音楽に詳しい妻に相談すると「お菓子の方がよい」とアドバイスしてくれました。みんなに分けられるし、ワイワイガヤガヤ食べられるとか。

「なるほど!」と思いつつ、何がよいか悩みました。 洋菓子? 和菓子? できれば祖谷のものがよいと思いますが、祖谷にそんなしゃれたものはありません。

あれこれ思案しているうちに妙案が浮かびました! そうか! 祖谷には雑穀がある! 雑穀で作ったお餅は町では手に入らない! 記念にもなる!

少し解説すると、餅と言えば普通はモチ米で作ります。しかし祖谷には平坦な土地がありません。田んぼも殆どなかったので米もモチ米もあまり作られておりませんでした。

しかし餅はたくさんありました。 なぜか? タカキビ、コキビ、粟と言った雑穀が餅になったからです。

雑穀は痩せた傾斜地でもよく育ちました。 作られたものは、茶色だったり、黄色だったり、カラフルでおしゃれ。

これは喜んでもらえるに違いない! 麗子さんは毎年年末、餅を注文販売しているし、頼めば作ってくれるに違いない! そう思いました。

さっそく電話をします。すると意外なことに難色。雑穀の在庫が無く、この時期は手に入れるのも難しいそうです。しかも本番は間近。「白餅(もち米で作った餅)とヨモギ餅なら作れる」と言うので、「仕方ない。それでお願いします」と手を打ちました。

そして、本番前日、餅を受け取りに行ったところ、「キビが手に入ったので、キビ餅とヨモギにしておいた」と言うのです。感謝!

キビ餅。 米にモチ米があるように、トウモロコシにも餅用のトウモロコシがあるそうです。 93歳の母親に聞くと、キビ餅も子供のころ、よく食べていたそうな。

どうやら相当探してくれたようですが、何とか人数分をかき集めてくれました。黄色いキビ餅と深緑色のヨモギ餅をセットで包装してそのまま渡せるようにもしてくれていました。

そして更に”半分持つ”と言うのです。代金のことです。

「いやいや、それはいかん!」と言いましたが、どうしても持ちたいとのことで、差し入れは麗子さんと私の折半という事になりました。

麗子さんは私よりも干支えとで一回りほど上。テレビが普及する前に祖谷で育っています。正真正銘、純度の高い祖谷の人間です。昔ながらの人情を備えています。

そして祖谷愛にも溢れています。地元を愛せずして人情は生まれません。地元愛と人情に溢れた彼女は来訪者へのおもてなしに誠心誠意努めます。

江戸時代に太田氏が祖谷を訪れた時も、30年前に柴田先生が祖谷を訪れた際も、麗子さんのように地元愛と人情に溢れる人たちがたくさん存在し、お客様を歓待したものと思われます。

そのような触れ合いが、名残り惜しさと郷愁を生み、落人伝説のはかなさとも相まって、深山祖谷山のキーメッセージとして採用されたのではないかと想像します。

かく言う私も、テレビやインターネットで少々けがれてはおりますが、生まれも育ちも祖谷の人間。 この祖谷の伝統を継承し、太田氏、柴田先生、そして今回の未来へつなぐ合唱の会様と引き継がれてきたバトンをしっかりと次の世代に渡せるよう頑張っていきたいと思います。

今回、未来へつなぐ合唱の会の皆様にお会いし、その交流を通して、大変貴重な経験をたくさんさせて頂きました。加えて、大切にすべき祖谷の伝統について気づきも得られました。これは望外ぼうがいの喜びです。

指揮をとられた西岡先生、未来をつなぐ合唱の会の皆様、誠にありがとうございました。この出会いに心から感謝しております。

■補足

・最後に、参考までに、太田氏が辿ったと思われるルートをマップに示しておきます。番号をクリックすると地名が出てきます。

・次回コンサートは来年3月1日(日)に行われるそうです。お題は”伊勢”とおっしゃっていたと思います。ご興味のある方はどうぞ。私は来年も行きたいと思います。
・実はまだ”深山祖谷山(打ち上げ編)”というのもあります。追ってまた掲載の予定です。少し熱が引いて冷静になってから書きたいと思います。
・文中に手まりの写真を載せています。私の祖母が40~50年前に作ったものです。我が家に残っていました。祖母はこのような手毬をよく作っていました。その昔子供にも作ってあげていたのでしょうか?
・麗子さんのお餅、写真を撮ろうと思っていて忘れてしました。致命的なミス!すみません!

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