ブログを書いていると平家の落人伝説に関する話がよく出てきます。知らない人にとっては唐突感があると思いますので、祖谷の平家落人伝説について簡単に整理しておきます。
一般に平家は瀬戸内海の屋島の合戦で敗れたあと、九州の方に逃れ、最後は壇ノ浦で滅亡したことになっています。これに帯同した幼い安徳天皇も壇ノ浦で入水されています。
しかし、祖谷の言い伝えでは、壇ノ浦で亡くなった安徳帝は替え玉で、本物は屋島の合戦のあと、ひそかに四国山中にお逃れになったとされています。
その時の平家の大将が平国盛と呼ばれ、やはり壇ノ浦で亡くなったとされている平教経(清盛の甥)だったと言われています。

国盛一行は文治元年(西暦1185年)の大晦日に祖谷の大枝という集落に到着し、現在「平家の窟」と呼ばれている洞窟で正月を迎えたと言われています。
一行は暫く同集落(大枝)に腰を下ろし、その間に安徳天皇のために京上という集落に御所を作ります(その地は今も「天皇森」と呼ばれ、地元の人から親しまれています)。
しかしそこはすぐに地すべりで流されてしまい、栗枝渡という集落に住まいを移します。そしてそこで安徳天皇は崩御されます。
一方、平国盛は阿佐という集落に居を構え、平家再興の準備に入ります。
しかし、安徳帝が崩御され、暫くは悲しみに打ちひしがれていましたが、最終的には阿佐集落を永住の地と決めたようです。そして現23代目に至るまでずっと平家屋敷 阿佐家にお住まいになっています(但し途中何回か火災で建て替えられている)。
ここからは全くの私見ですが、清盛の甥である教経が本当に祖谷に来たかどうかは置いておいて、平家方のそれなりの人は来たのかな?と思っております。
と言うのは、阿佐家に残る赤旗は安芸の宮島に残る平家の鎧と同じ生地であるとの鑑定結果が出ていますし、現存する家宝の刀も名刀であるとの鑑定結果が出ています。
対して、安徳天皇の方はと言うと、口頭伝承のみで、証拠につながるようなモノは残っておりません。
平家は西日本の至るところに落ちて行ったと思います。全く見知らぬ土地で存在感を示そうとすると、幼い子供を安徳帝と称して崇めるように仕向けたとしても不思議ではないのでは?と思っております。
※ブログ「何にロマンを感じるか」で書いたように、安徳帝の真偽よりも、それを840年間守り通して来たことに価値とロマンがあると個人的には思っております。
祖谷の平家落人伝説を簡単にまとめると以上のような感じです。以後、この記事をベースに、おいおい、詳細を紹介していきます。
なお、平家落人伝説については「祖谷の語りべ(森本徳著、祖谷観光開発有限会社発行)」に詳しく紹介されています。また東祖谷歴史民俗資料館でもパネル展示や書籍の紹介があります。
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