実は東祖谷は開かれた土地だった

天狗塚 祖谷の歴史

お知らせ/季節の情報”ではよく記載していますが、私が住んでいる所は大体標高500mに当たります。

祖谷では標高350m~1,000m辺りに人が住んでいるので、私が住んでいる辺りはかなり標高の低い場所だと言えます。

にも拘わらず、祖谷の中で、祖谷の人から、私は”奥祖谷の人”と言われることがあります。「えっ?」と思います。

例えばこちらのマップをご覧ください。祖谷の玄関口は⑮の辺りです。そして剣山方向に向かってどんどん奥になります。私は東祖谷在住で⑥~⑧の辺りに住んでいますが、④の辺りに住む西祖谷在住の人から見ると東祖谷は全て奥祖谷になるようです。
※私は⑩~⑫辺りだけが奥祖谷だと思っていた。

しかしこのように⑮が祖谷への玄関口になったのは豊臣秀吉が天下を取った後の話です。

厳密には①②を祖谷川沿いに下って吉野川と合流する辺りになりますが、秀吉政権以降ここを玄関口として祖谷川沿いを遡る祖谷街道が作られました。それ以来西祖谷が玄関口で東祖谷が奥となりました。しかしもっと以前は東祖谷の方が玄関口だったようです。

前述のマップを少し拡大して見て頂けると、剣山から三嶺みうね、そしてその先の山々へと稜線が繋がっているのがわかると思います。大昔はこの山の稜線が往来に使われていました。今で言う縦走ルートです。
※冒頭の写真はそのルート上にある天狗塚で撮影

この縦走ルートは土佐、すなわち高知県への街道として使われていたらしく、そのルートの中に東祖谷は存在していました。

昔、土佐は島流しの地だったとか。たくさんの高貴な方が祖谷を通過して土佐に下っています。

例えば浄土宗の元祖と言われている法然上人は晩年土佐に島流しにあっています。

また西祖谷には唐歌姫からうたひめ伝説と言うものが残っていますが、これは土佐に流罪となった親王様を妻の姫君が追いかけて来たという悲劇のお話です。

そもそもが、東祖谷の開祖と言われる恵伊羅御子えいらのみこ小野老婆おののろうばは土佐への流人るにんです。ここが土佐かな?と勘違いして祖谷に住み着いたと言われています。最初に住み始めたのが現在の菅生すぎおい集落、上記マップで言うと⑪の辺りです。
【注】両氏の入山ルートは諸説あります

こんな感じで東祖谷には土佐への街道があり、剣山、すなわち今で言う一番の奥祖谷が玄関口だったことがわかります。集落自体も奥から形成された模様で、祖谷に残る最も古い文書もんじょは菅生文書と呼ばれやはり⑪辺りの集落のものです。

このブログで、私は何度も祖谷を辺境の地と書いています。その度に歴史に詳しい人は”そんなことないよ”と思うだろうなぁと気になっていました。

そこで一旦歴史を整理しておきます。440年よりもっと前、東祖谷は辺境の地どころか、土佐への主要ルートとして結構な往来があった土地だったようです。

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